2.8.18
人の本質は変わらない。極端になるか平坦になるかの変化はあったとしても、根底にあるものや性格は変わらない。というのを改めて感じた。
記事を書くために写真を振り返るとここ数年、お盆に弟とその友人と遊んでいる。何故かそうなっていて、示し合わせてやっているわけではなく、人との縁やタイミングによるところのみで遊んでいる。こういった集まりについて学生時分から思い返すと、いろいろな変遷があって今に至るなと懐古する。実際、ここ数年の通例もいずれ無くなることだと思う。それぞれの生活があって、その中でタイミングが合えば会うのが普通だとは思っている。しかし、「示し合わせて集まる機会を設ける人がいる」という事は、もしかするとすごく大事なことなのではないかと最近出会う方々を見ていて思う。年に一度でいいからそういう日をわざわざ設けて会う人を作りたい。
オーストリアGP、荒れていたな。ドビはおめでとうだが、状況的に喜びが薄い気がして、表情も暗いように見えた。決勝前の決断が男気溢れるものだったので一層好きになった。どうか引退なぞにならぬよう願う。来期もどこかで走る彼を見たい。
2.8.11
久々の更新となってしまった。すごく忙しいわけではなく、単に書こうという気が起きなかったのが本当の話。
今まで、「とりあえず話を聞いてほしい」っていう感覚がよく分からなかった。そういう場合に出くわすとしてもほとんどが聞く側になることばかりで、その話を聞いてみても、だいたいが内容のない話や、的を射ない、とりとめもない話であることが多かった。否定するわけでなく馬鹿にするわけでもなく、自分がそんな感覚に陥ったことがないため、他人が何故そんな状態になるのかよく分からなかった。悩みとは、「何に対して・どういう思いか」というのがはっきりしているものであって、わけの分からないもやもやした状態・感情は、言い方が悪いが、行き場のない不満(をこじつけで理由付けしている)かもしくはただの自己陶酔だと思っていた。(し、おそらく今もそう思っている。)どうも最近の自分はそういう状態に陥っている気がする。楽器を弾くこと、バイクに乗ること、どこかに行くこと。そのどれを取っても楽しさが感じれなく、心の底には小さな悩みがそこら中に累積していて、どれどれ解決しようと一つ一つに目を向ければ、それぞれの悩みに嫌気が差して何もできない。今思えば、昔からこういう状態になることはそれなりにあった。が、気分屋かつ忘れっぽいという性格もあっていつの間にか解消されていたため、邁進する気力があれば引きずることもなかったのかと思う。なんとも女々しい状態だなと。まいった。爽やか(そう)な写真とは裏腹な内容だ。
2.7.3
例えば電脳空間でしか話をしたことがない相手が居て、それが友人の友人で自分からは関係の薄い存在だったとして、果たして仲良くする必要があるのかどうか。私としては、仲良くというほどでもないが実際に会ったとしても差支えない程度に、礼節をわきまえて対するのが普通だと考える。ではそれが、出会う場合を想定する必要が無いほど、邂逅する可能性が限りなく低い場合はどうか。それでも私は、最低限の礼節は必要だと考える。実情はそんなことを気にする人間の方が少数な気がしており、私自身が古い人間なんだろうなと感じた次第。実際に最近あった出来事であり、気にしすぎだと言われた話。
どこにでもあるだろうが、ある一定の大きさのコミュニティ内にある、異種排他的(実際はそんなことをするつもりは無く受け手の問題であろうが)な感覚が苦手だ。自分がスイッチを入れておかないとその中で居れる気がしない。そうなるとニュートラルな感覚で接することが出来ないためぎこちなくなる。何が言いたいのかというと、文頭の感覚で接すると距離を作ってしまうが、スイッチを入れて接すると非常に疲れる。つまり私がいかに人付き合いが苦手かということ。自身が変わった人間だと自覚しているので余計そう感じる。精神の成熟はまだまだだなと感じる。ただ、無理をしてそこに居場所を作るほど、そこに執着がないのが本音。